November 16, 2012


「風情のある街がなくなった。」という話を聞くが、俺は商店街のある街に育った覚えはないしそういう人は大多数いるだろう。

小学生の頃は毎日、国道を横断 (もしくは地下道で)して学校に通っていた。中学校に入るまでは地元といっても同じ小学校の同級生でさえ1キロ以上は離れた場所に住んでいたため、学校帰りに遊びにいけるのは同じ地区の子や同級生くらいなものだった。

 小学校低学年の頃は道を覚えるのが優先事項だったが、慣れるとどんどん小道に入っていくのが楽しかった。
とにかく、歩くのが楽しかった。学校に着いてしまえばそれは終わってしまうし、家に帰れば一人の子どもとして振舞わねばならない。そういう鬱憤がどっかで勉強や家にいることに対してキレて後に家出したくなって蓄積していったのかもしれない。

◇◇

実家は平野部にあり、そこから学校や駅に行くことになるのだが、しかし畑の広がる平地を望みながらもその時々の時代を感じることはできた。こう思う。情報は場所にではなく人に集まるのだと。その人がどこにいても時代を感じることのできる人間であれば、どんな場所でも田舎や辺境ではないのだと。

◇◇

他の同世代の人間がどう過ごしたかはあまり知らない。唯一の趣味のゲームにしても、小学生の頃は、テレビを専有する据え置きハードは家に無くて、ゲームボーイ等の携帯機がまさに生命線だった。その点、任天堂は「わかっている」企業といえるだろう。父が過去に仕事の同僚から譲り受けたとかいうマイナーそうなゲーム機も、記憶にないままどこかへ放ってしまった。確かRPGもので、主人公が死んでも霊体となってフィールドを彷徨える奴と、印象に残るカッコイイBGMのSTGが記憶にあるだけだ。それでも現在PCEとかのゲーム情報も一応見るようにしてるのは、やっぱりその頃の「売れ筋かどうかわからない何か」で遊んだ経験が大きいと思う。

SFCなんかも流行りもののはずなのだが家にはなく、親戚の家や同級生の家に遊びに行く時にお目にかかっていた。で、この話が記事になんの意味があるのかというと、一応はゲームとかおもちゃとか、遊びという文化に触れていることで今のネットでちょくちょく「懐かしい話」についていけてるのも「時代を感じる」恩恵があるのかもしれないという話。

◇◇

母はよくドライブに連れて行った。電車を経由したり、地方の古い映画館のイベントもチェックしてたし、フェリーにも乗せた。歴史博物館、美術館、工作教室、劇場公演、思えば住んでいた地方一体の催し物に出会える機会をくれた。
ただ子供の頃はよく買い物にも付き合わされるのでそれは苦痛だったが、今では物の目利きも生活に必要な知恵だと考えている。というよりそうすることでしか女性の金銭や旅行や生活感覚を身に付けることはできないだろうと考えている。それが男性特有の考え方だと言われれば否定しようがないが。

そんな彼女も家ではただチラシをチェックしたり、ナンプレを解いたり懸賞ハガキを書いたり、庭いじりをしている人だったな。父は家でのんびりしているのが合ってる人で、催し物に率先して行くような人間ではなかった。どうもこの辺のメリハリが効きすぎて自分の中の世の中の情報がごっちゃになってしまっている。

永遠の寿命があるならいろんな所へ行きたい。だが、「ここではないどこか」はいつか誰かが作り出すしかない。そしてその作ったものを誰かが感じなければならない。

◇◇

ここから本題に入る。辛辣さを伴う。

「風情のある街がなくなった。」という話を聞くが、俺は商店街のある街に育った覚えはないしそういう人は大多数いるだろう。

冒頭のこの話はここから続けよう。
テレビで見るような「田舎」というのは、芸能人がぶらぶら散歩する山の中や国道沿いや坂道沿いや海岸沿いやら、そんなものは腐るほど出しすぎてるんだよ。

お前らにはわかるのか。ひとたび家出すれば、たとえ山の中でなくても、怪しい大人たちがひしめく夜の街でなくとも、独り言をつぶやく危ない人がうろつく農道でなくとも、平野の夜の道の中で、寒い風にうたれながらただ歩くことしかできぬ。自転車だぁ?車だぁ?電車だぁ?人間の足などたかが知れている。

確かに平地の映像もある。ただヘリコプターで上から撮影したものばかりで、それを横から見た図がない。つまり地上から、畑の中を国道が横切る図、夜の、何もない平野の暗さ、そういったものがない。毎日とはいかずとも、国道の流れる車の動きを見つける様は洗濯機の渦を目で追い続けるようなものに近いが、それ以上のものがある。

毎日、学校から帰っては国道を眺めていた時期がある。
あるときは単身赴任の父が車で帰ってくる音をより聞き分けやすくするため、あるときは、なぜここにはこれだけの田んぼや畑があり、それが地平線まで続いているかのように見えるのかということ。そして、国道には毎日たくさんの車が往来している。知らない車種、知らない運転手、彼らは通り過ぎ去っていく。自分の視線に気づくか気づかまいと。

国道は農道にも繋がっている。その頃の俺では車を運転できない年齢だから、隣の町の親戚の家にも門限を破らずにいけることはできないし、あの車達が向かう先にも行けない。そして、広がる田んぼや畑にしてもどうやって耕す知識や経験がない。この地区には同級生を含む十数人の子どもたちがおり面識もあるが、いつまでも一緒というわけにはいかない。思えば物心つく頃にこの実家に移り住んだのだから、本当は元いた場所(といっても同じ三重県だが…)の頃の記憶があるかもしれない。この地区にはスーパーすらない。個人商店もなく、たまに夕方になると軽トラで巡業してくる人が物資を売っていた記憶がある。畑帰りの爺さん婆さんが車に群がってあれやこれやと買い物をしている中に、俺も連れてもらったことがある。

どれだけ田舎で充実した暮らしをしていようと、寂しさはやってくる。ある人間はそれを窮屈さや鬱屈した感情に身を任せたり、地方から出ていったりするのだろうが、それでも人間はどこにいても「ここではないどこか」を感じている。心のなかに、地方と都会とか、そういったものを超越した時代を持っている。人間はいつかそれを世界に作らなくてはいけない。そういう人たちの感覚を俺は繋げたい。

◇◇

2~3年前に「探偵ナイトスクープ」で松阪市が出てきた時、あの時は別に見知った場所であろうがなかろうがはっきり地形がわかったよ。それに鳥羽の、あの岸壁沿い(FF11のバストゥークグスタベルグのような)や、四国のちょっと入り組んだ内陸地の小島のそれなんかとか、そういうのを見てようやく「テレビ局の人間が撮る気のない場所」がちゃんと映っているのを感じる。

俺が感じているのはテレビの連中が田舎や地方をなんだと思っているのかっつーこった。

◇◇

“田舎”というイメージが自分の中にない。
そして寂しかった。

寂しいというのは人付き合いのことや地方暮らしのことでもない。
寂しいというのは、エヴァンゲリオンのシンジが夕暮れの中で公園で孤独そうにしているああいうのを指すのではない。そんなものは、その後の人生でどうにでもできる。幾ら主人公にとってトラウマものの環境でも、多くの人間にとってあれは思春期の人間の一時代を切り取ったものでしかない。

場所ではなく時代から取り残されることが怖いのだと知れ。それしか言い様が無い。

ずっと感じてきた「寂しさ」というのは、そういう情報が彼らの中にないことを指しているのかもしれんな。だからゲームRPGを見ていても、まったく親近感のある世界なぞ存在しなかった。技術があっても、彼らに感性があるとは俺は認めない。グラフィックの中に求める「匂い」はない。だからいつか、それを超える空間を見出すことで彼らを超えたい。今でもそう思う。時代をよく観察していたのはお前らではなく俺達だと。ここに育った者の一人として、そういう戦いを始める。いつもその気でいる。

都市化が進もうと、過疎化が進もうと、人はいずれにせよ群れようが孤独だ。それを理解して初めて「辺境」がなくなっていく。そう思う。俺から見ればたとえ行ったことのない場所でも。日本のどこもかしこも辺境でしかない。その土地を理解し、その場所をどうしたいかを決められないのならば。自分がどうしたいかを決めなければ。
 
◇◇

日本以外の、もっと何もない世界、もちろんそんなのはテレビで見る世界にもある。俺は、なぜ自分が「ここにいるか」が知りたい。それだけだ。別に理由がなくても生きていける。しかし、それではあまりにも世の中から距離を置きすぎている。そうやっていつか忘れ去られる、忘れ去られた感覚を、みな自分がただ生きていればいい、そういう感覚で作られてきた世間というものに揺さぶりをかけてみる。みんな、自分がなぜここにいるのか、それを問うたことはあるのか。問うものがなければそれでもいい。

自分の中では時代とリンクされてしまっている。「こうしたい、ああしたい」という気持ちと「寂しさ」が。そしてそれは他の街や場所に行って住んでみないとわからないかもしれない。だが俺はいつか必ず、自分が育った場所と同じ空間の匂いのする場所を他の地域や地方にも探してみせる。場所ではなく、それが時代とリンクしているならば人間の中にもそれを見つけることができるかもしれない。

◇◇


◇◇

親父は(父方の)実家近くに行くと海の状態を見るのが好きだが、海は平然と人が入れないからな。だから人の心を分けることはない。何もかも受け入れてくれるように見えるが、荒々しい時のそれは自然そのものの躍動だと感じる。

自分の心の中に“辺境”がある。場所とか、時間ではなく、人と共有できるかどうかわからないモヤモヤしたあやふやな感覚。それがあるから顔の見えないネット住人でさえもさも存在するように感情を抱くことができる。

◇◇

時代という区分の中ではどの時代も辺境だ。どこにも中心なんてない。それは個人が決めることだ。大人になって足の届く範囲が増えても、人は、どれだけ旅をしようが何を見ようが、そこで感じなければそいつの世界は拡張されない。どこまでも自分の中に空虚さがある。場所ではなく、テレビの中の盛況ぶりだとか、一緒に生活はしているけど生活スタイルは隔絶された大人と子どもという関係、そういうものの中に、人間の中の空虚さがある。

ただ、、人がいなくなった土地だからといって、魅力のない土地だとは思わない。そこで暮らした人間の感じたことを、自分も感じればいいだけだ。それを何かに書き残す。この世界に足りないのは情報だと。例えばネットでも、マイナーな話題でもちゃんと考察している人間のそれを見た時に、世界の広さと狭さを同時に感じるだろう。それだよ。それなんだよ。

そして情報は都会にも地方にも差はないという結論に至った。だから自分の好きなゲームについての情報が得られるならば、そこは田舎でも都会でもいい。つまり田舎か都会ではなく、その情報を持つ「人間」「場所」あるいは過去でも未来でも「ここではないどこか」にアクセスできればいい。ネット中にはそういう「匂い」を持つサイトもある。

◇◇

長くなったが俺が言いたいのは、
・テレビに映る「田舎に泊まろう!」「芸能人のブラブラ商店街散策」なんぞ知るかって話だ。毎日、地平線の先まで農道が続いてよ、国道はあるけど何も荷担しなくてよ、夜は真っ暗でよ、それを眺めていてもそういう地域に住んでりゃメンタルは保つワケよ。地方を映したきゃ、その地平線を歩いても歩いても人間の足ではなかなか辿り着かないってことを見せろよ。

・ゲーム業界もそうだ。
RPGでは勇者ご一行が一マス歩くたびに物凄い距離を移動してる。だが現実にそれをやったら移動だけで死にそうになる。ゲームは今までそういう部分を省いてきた。魔物と戦闘?ふざけんな。人間はフィールドを歩くだけで蹂躙されるんだよ。つまり究極のゲームってのは、歩いてるだけで楽しい空間を作れるかってことに尽きる。

それでまあ、風景像とか、人によって様々でみんな住んでる場所によって違うだろうし、あまりこうと言えるわけじゃないんだけど、結局は何もないはずの風景の中にも、例えば畑だって誰かが耕し続けてるから存在してるわけで、自分が干渉できない場所にも意味はあるわけで、それをただ遠目に見るだけの子供時代を過ごした人間としてはいろいろ言いたくなるわけで。


(17:58)

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この記事へのコメント

2. Posted by jelly gamat gold g   September 10, 2016 13:39
より正確にはランカウイ島に位置しています。一般的に、金と比較した場合、金は多くの利点を有します。
1. Posted by バーバリー tシャツ   December 03, 2013 04:59
二束三文のブログ:地方、都会、情報、寂しさ、空間、時代、匂い、その人がどこにいても時代を感じることのできる人間であれば

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