October 18, 2011

まだ推敲は終わってませんが、メモになります。

ガメラ2000(ゲーム)の話をして思い出した。
最後に見た怪獣ガメラ映画、「小さき勇者たち〜ガメラ〜」のことだ。
あれからガメラどころか、ゴジラすら作られていない。
とりあえず当時のこの映画の評価を調べてみると、極端だったことがわかる。

小さき勇者たち~GAMERA~評価

かといって自分が引用したいコメントはない。それどころか、
低評価をつけている人間が一般人を自称して目の肥えた難癖をつけているほうが目立つ。

まず、ガメラは「子どもの味方」であって、「正義の味方」ではない。
批評者の中に、そのような勘違いをしていることからも、往年の映画マニアの行く末がわかる。俺の趣味はゲームだけど。フィルターの出来た大人にしては底の浅いフィルターとしか言えぬ。

また、

小さき勇者たち〜ガメラ〜 - Wikipedia
ケヅメリクガメはワシントン条約付属書II類掲載種であり、あつかいに慎重さが求められるにもかかわらず、ふさわしい対応をしてなかったと、マスコミで取り上げられた。[2]
顕著な例として、ケヅメリクガメの甲羅へ穴が穿たれていた。当時公開された、映画に使用したケヅメリクガメにその痕跡が確認できる。また、撮影用の亀が何匹か衰弱死している[3]
このように映画の趣旨、環境省のタイアップとはかけ離れた扱いが行われていた。
2. ^ 週刊朝日2006年5月26日号、サイゾー2006年34号
3. ^ 当時の朝日放送「ムーブ!」の取材にて、角川ヘラルドが死亡した事を返答している。
これはどうなのだろうな。
出典リンクや画像があってもいいし、もし何かの理由があって叩くために上げた話だとしたら今時分はわかっちゃうから、リンクされる方がマズいと判断したのかねえ。
まあ、その場合は怪しい団体に目を付けられるのもまた、映画が本物という証左だと思うがね。

リクガメを考える

まあ、こっちで情報を集めている側のほうが撮影地元の情報も取り入れてるし、
この記事の言うとおり「リクガメを考える会」がいくつか編集で削除した発言があるにもかかわらず、
「リクガメを考える会」の主がホームページは消さない(平常を保つあたり)あたりが、
「全体の話を消せばこちらが怪しまれるのは確定」すると考えてるのであろう。
このサイトが現在も書きこまれているBBSだって、本人が他者に成りすますこともできるからな。

ぶっちゃけ、本作品に低評価をつける怪獣マニア(一般の主婦だとか言ってる怪しい人もいるが)
といい、変な組織が目を付けてる可能性は否定できん。
そこから怪獣映画がなかなかでて来ないことも、彼らが原因の1つとして俺っちは提起しておく。

この作品が原因で作られなくなったというより、そもそもこの映画でテーマを変えた趣旨自体が従来のマニア層を取り込むつもりはなく、興行を得るつもりではなかったんではないか。
本作の出演者は演技する者を除いてほとんどが無料奉仕のエキストラであり、のべ3000人程度のエキストラが募集され、1万人近くの応募があった。ジーダスに食べられるシーンでは前面に有料のエキストラが配置されたが、その他の逃げ回る群集、体育館、病院シーンのほぼ全員が無報酬エキストラと見てよい。
スケボー少年などの大勢の子供達もエキストラである。社会学習の1つとしてクラス単位で撮影に参加した学校も2校あったほか、市役所職員が日常の風景や自衛隊員などのエキストラとして参加した。
報道関係者の多くがエキストラとして参加し、見返りは監督へのインタビューであった。
他の方の感想は、

フィルターの出来上がった大人と違い、子供たちは、フラットな瞳で情景を直視する。
人々が逃げ惑う中、お互い面識のない子供たちが、リレーのように真珠の原石?をトトの元へ運ぶ。
そこに交わす言葉はない。『希望』を運ぶのには、説明すら必要ないということなのか。
ここからはほめぞうとしての意見を述べます。
Wikipediaの話に戻そうか。

「彼はトトを育て、助け、当局から守り、ガメラとして空に放し、」
自分の知っている地方でもウミガメの産卵の為の教育実習や浜の整理をしていた
海で繋がる場所はそうなのだろうな…

本作では33年前に出現したガメラ(アヴァンガメラ)、主役である子供ガメラ「トト」の二頭のガメラが登場する。この二頭の関係は明示的には描写されない。

この作品ではガメラから見た人間の印象を、怪獣自身が口で語ることはない
(怪獣映画に出てくるような、怪獣の立場の判断材料となる代弁者はもういない時代となった)。
代わりに、代弁者=小さき勇者たちとなっている。
いつの日か、人間側がトト(ガメラ)のような立ち位置になってしまう日がくるだろう。
「この様に登場する人物、怪獣の関係を単純化し、子供の視点から描写することで、人間とガメラの成長物語が子供にも判り易い形で提示されている。」
それは違う。
いつの日か、ガメラ自身の声で語る日が来る時が訪れる。
育ての親たちもまた、トト(ガメラ)自身であり代弁者だ。

では、ガメラとして空に放ったのは「自分たちに都合のいい偶像としてのガメラ」なのか?。

それも違う。
ガメラが誰のために戦おうとそれはガメラの意思であり善意ではない。

もう一度言うが、海で繋がる世界の動物の延長線上にいるのがこの作品のガメラである。
そういや
「自衛隊によって名古屋の研究機関に運搬されてしまう。」
オイwwww
ローカルに存在しそうなブラックネタにすんなwwww

◇評価者の立場について

述べた要点

・ 虐待疑惑が本当かどうか
・ 興行収入や虐待によるマイナスイメージがシリーズ制作のストップに繋がっているか
・ 批評者のレヴューは適切か

で、調べてみたらどれも怪しいってのが個人的な結論。
そこで、「評価する」とはどういうことか今更考えてみた。

・ 本当の評価者は、評価者そのものを評価できること
・ 誰もが気づくような失敗例をあげつらわないこと
・ その作品にしかなさげなテイストをレヴューとして引き出すこと
・ 興業的な成功と失敗を作品の出来の善し悪しに結び付けないこと(分別すること)

…数年間、ネット世界の物書きたちを見てきて、それができる人間は少ないというのは知っている。
知名度のある人間であってもできぬという事実にショックを受けたくらいに。
で、批評とか評価で検索してたら、例の超映画批評関連(ガメラ酷評なのは関係ないよww)で「大日本人」の記事を見つけましてな。そこから、

「いやはやなんとも」大日本人@ぴあ映画生活レビュー
もちろん、辛口批評でも悪口でも、どんな言い方をしてもいいんだけど、相手の急所を突いてはじめて批評のし甲斐もあり、相手がいちばんいわれたくないことを言い立ててはじめて悪口のいい甲斐もあるというもの。なにを言われても蛙のツラになんとかでは、力がへなへなと抜けてしまう。「映画じゃない」とか「映画をなめてる」とか、なにをどう言っても無力。どうもそんな映画ですね、これ。

じゃあ誉めて誉めて誉め殺しにしたろか、と思っても、それもまた相手の術中にぴたりとはまるようでおさまりが悪い。

けっきょく、この映画のことをどう思うかではなくて、この映画のことを「自分が」どう思おうとしているのかばかりが気になってしまう。そういう「自分」は、いったいどんな「獣」なんだ、と考えている自分に苦笑い。鏡に向かって首をひねっている獣か?合わせ鏡か?まったくお笑い草もいいとこですね。
このコメントがつけられた「大日本人」は面白いのかは知らない。だが、
「こんな映画みなきゃよかった」と思いたいのに、実際に「観てしまった」という痕跡を消すことはもはやできやしない。
彼らが、「自分がクソだと思う作品を観てしまったという事実を揉み消したい」という
いつの時代も、どこにでもそういう連中がいるのも確か。

この記事のオチはどうしようかねえ。

(01:15)

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この記事へのコメント

1. Posted by jelly gamat gold g   September 10, 2016 14:45
ナマコエキス、部外者はナマコやナマコ、それを呼び出します。

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